くだらねぇ

 くだらねぇ社会

 くだらねぇ友人

 くだらねぇ先公

 くだらねぇ大人

 そして

 くだらねぇ自分・・・・・・

 何処を見渡しても反吐が出る程つまんねんぇモノに溢れた

 腐ったこの世

 ・・・・・・・

 飽きた・・・・・・

 

 風野(しん)は、右手に持っている銃をゆっくりと自分の顳顬に近づけた。白銀の冷たい銃口が風野の顳顬に当たる。

 風野は人差し指に力を入れた。ハンマーがゆっくりと起き上がる。

 シリンダーから覗く弾は、獲物を捕らえる瞬間をじっと待っている。

 部屋の時計の秒針の音が五月蝿い程響いている。等間隔に。まるで死刑台の階段を一歩一歩ゆっくりと昇っていく様に。

 机の上には満点のテストが散らばっている。風野にとっては何の意味も持たない紙切れだったが。

 その上にはノートパソコンと携帯電話。パソコンは開いてはいるものの電源が入っておらず、暗闇の中に風野の背中を映している。

 『SMITHWESSON』と刻まれた二インチのバレル。細身のグリップ。五発式のシリンダー。見慣れ、使い慣れているリボルバーが、今は重く感じられる。

 ハンマーがゆっくりと起き上がる。一緒に擦れるような音がする。ハンマーが起き上がる時に音を出すなど知らなかった。

 ハンマーは頂点に達すると、力尽きた様に勢い良く倒れ込んだ。

 

 パンッ・・・

 

 乾いた音が風野の部屋に響いた。


 

 

   1.デモンストレーション

 

 「ガスガンの威力も余り大したことないな」

 血が少し滲み出た顳顬を摩りながら風野は呟いた。

 耳鳴りはするものの、どうってことはなかった。風野にとっては少し残念な結果だ。

 風野は、先刻のことで死のうが死ぬまいがどっちでも良かった。いや、どちらかと言えば死にたかったのかも知れない。面白くもない世の中に縛り付けられるなど御免だった。自殺というのは癪だったが、何となくやってみたのだ。結局生き残ったのだが。

 風野は溜息をつき、椅子に腰を下ろした。ガスガンを机の上に置く。

 背凭れに体を預けると同時に携帯の着信音が鳴った。メールだ。

 風野は携帯を開き、内容を確かめた。

 差出人は不明。「このメールを二十四時間以内に誰か一人に送信すること。送信しなかった場合、あなたは『Death Game』に参加することになります」

 チェーンメール。こんなくだらない世の中だからこそ暇な奴などゴロゴロ居るのだろう。風野はそう思った。他人に迷惑を掛ける暇潰しだ。

 『Death Game』という安易な名前が馬鹿馬鹿しさを強調している。だが、風野はこの名に聞き覚えが在った。

 昨日クラスメイトの佐々木が、『Death Game』のメールがどうしたこうしたなど言っていたのだ。

 メールはまだ続いていた。

 「注 このメールを期限内に消したり、二人以上、又はメール以外の方法で伝えたりした場合、あなたは『Death Game』のターゲットになります」

 これでメールは終わりである。悪質な嫌がらせだ。と、思いつつも風野は少し興味を持った。

 『Death Game』というものが本当に在るにしろ無いにしろ、誰にもこのメールを送らず参加してみようと思った。

 夜の十一時。明日のこの時刻に参加が決定する。

 だが、本当にそのゲームが存在するのならば、ルールを知る必要が有る。

「ま、なるようになるか」

 風野は煙草を取り出した。窓を開け放ち、サッシに腰を下ろす。二階から夜の街の姿を見るのも中々良い。

 ポケットから鉄製のライターを取り出し、煙草に火を点けた。大きく吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。

 三日月が雲の透き間から見え隠れする。

 至福の一時はゆっくりと流れていった。

 

◆◆◆

 

 風野には両親がいない。割と幸せな家庭の一人っ子として生まれてきたのだが、二年前、当時中三生だった風野を残して、二人とも事故で他界したのだった。

 だから、今の風野家に住んでいるのは慎一人なのである。一人で住むには広過ぎる家だが、何となく離れたくなかった。思い出がどうとかでなく、風野自身にも解らない、何か不思議な力で留められていると言った感じだ。

 それ故、それまで親がやっていた家事全般を風野一人でやることになった。風野にとってはそんなに苦になることではなかったが。

 風野は、特に掃除に力を入れていた。いつも使う部屋から、殆ど使わない部屋まで毎日掃除していた。何がそんなにさせているのか、やはり自分でも解っていないようだが。

 

◆◆◆

 

 翌日。

 目覚めは悪くなかった。

 いつもの様に服を着替え、食事を済まし、歯と顔を洗い、洗濯物を干し、学校へ行く。何ら変わりのない平日。

 空は少し重たい色をしている。天気予報では昼から雨になると言っていた。

 自転車を漕ぎながら、内ポケットからイヤホンを取り出し、景気付けに明るい曲を聴く。風野の一種の癖である。

 授業中以外は大体音楽を聴いている。初めは両親の死という悲しみを紛らわせる為に聴いていたのだが、いつの間にか聴いていることが普通になった。

 学校に着き、教室に入る。二年一組。

 この学校のクラスは、各学年六組まで在るが、前学年の成績が良い者から順に一組から入っていく。

 風野の成績は学年トップだ。二位との差も結構空いている。その割には友人も多かった。大胆な行動を取ったり、予想外のことをしたりすることが、他の人を引き付けているのかも知れない。

 「よぉ、風野」

突然後ろから声を掛けられた。振り向くと佐々木が笑顔で近づいてきている。

 そのとき『Death Game』のことを思い出した。朝起きてから、ずっとそんなことなど忘れていた。

 「何?」

風野が佐々木から目を逸らして訊いた。正直なところ、佐々木は余り好きな奴ではない。

「昨日のメール見たか?」

佐々木は妙に馴れ馴れしく話し掛けてくる。

「あれ、あんたからか」

風野は溜息混じりに言った。

「送ったのはな。作ったのは誰か知らねぇけど」

ウザイ(・・・)言い方だと風野は思った。

 佐々木にメールアドレスを教えた覚えは無いので、恐らく誰かに訊いたのだろう。当然風野が佐々木のアドレスを知っている筈も無い。

「で、どうすんの?」

「何が?」

佐々木の訊きたいことは大方予想が付いたが、風野は態と焦らした。

「ゲームに参加するのかしないのかだよ」

佐々木が少し怒った様に言う。佐々木のこういった短気な所が風野は嫌いだった。だが、逆にそう言う所がからかい甲斐があるとも思っていた。

「さぁ?」

風野が素っ気無く返事をすると、佐々木は不機嫌を露わに自分の席へと戻っていった。争っても自分が負けるということ位は佐々木にも解っていた。

 

◆◆◆

 

 真面目にやっている振りをして、テストで良い点さえ採れば成績は良くなる。風野はそう考えている。だからこそ、世の中というものが面白くないのだが、風野には他の考えなど思い付かなかった。

 授業中でも先生の言ったことや、板書などをノートにとって、真面目に受けている振りをしていた。だが、実際頭の中では『Death Game』のことを考えていた。ノートには手が勝手に目に映る文字や、聞こえてくる言葉を書き出しているといった感じだった。

 昼食や、昼休みを含む休み時間もそんな感じだった。

 そして五時限目。

 先生の声で、風野は我に返った。

「佐々木はどうした?」

先生の声というよりも、『佐々木』という言葉に反応した。

 風野がざわめく教室を見渡した。確かに佐々木の姿が見当たらない。

 佐々木はクラスでの評判こそ良くないものの、成績は割りと上位で、授業に遅れることなどなかった。

 その時、昨夜のメールの注意書きが風野の頭を過ぎった。

「二人以上、又はメール以外の方法で伝えたりした場合、あなたは『Death Game』のターゲットになります」

何となく嫌な予感がした。背筋を寒気が走る。

 だが、探しに行くわけにもいかず、五・六と授業はそのまま続いた。

 結局、六限目が終わっても佐々木は戻ってこなかった。

 

◆◆◆

 

 放課後。

 誰も居なくなった教室で、風野は一人音楽を聞きながら雨が止むのを待っていた。天気予報によると、夕方頃から晴れてくるらしい。

 殆どの生徒が部活動に入っているが、風野は家のことなどがあるので入っていなかった。それ以前に、縛られること自体が好きではなかった。

 あちこちから聞こえてくる部活動の声は、小降りになった雨音を掻き消していく。

 風野は思い出した様に携帯を取り出した。ネットを開く。『Death Game』を入力する。検索。暫くの後、画面にエラーの表示が出た。ページが存在しないようだ。

 携帯を仕舞い、内ポケットから煙草を取り出した。窓際に移動し、少し窓を透かし、煙草に火を点ける。

 窓から吸い出される様に出て行く煙草の煙が、風野の心を落ち着かせた。風野にとっては、留まるものよりも流れるものの方が好きだった。

 一本吸い終わる頃には雨は止み、日が出ていた。教室を朱色に染めている。そろそろ帰ることにする。

 風野は帰る前にトイレへ行くことにした。職員室がすぐそこのトイレ。職員がよく使う分、生徒の使用頻度は極端に低い。

 トイレの中は臭かった。異臭。そう言える臭いが立ち込めていた。換気扇を回し、用を足す。

 手を洗い、トイレを出る直前、風野はふと足を止めた。

 小の方の便器は五つ在るが、大の方は一つ。その個室のドアには鍵が掛かっていた。人が居る気配はしないが・・・。異臭はそこから立ち込めている。どう考えても便の臭いではない。

 風野はドアをノックしてみた。返事はない。

 下に目をやると、床のタイルとタイルの間に赤い線が、大の個室のドアの下の隙間から出てきていた。すっかり乾いていたが、それは明らかに血だった。

 風野はドアの上の四十センチメートル程の隙間から身を乗り出し、中の様子を確かめた。

 個室は薄暗かったが、何とか中の様子は確認できる。紳士用の黒い傘が開いた状態でドアの方を向いて転がっていた。その下からは人間の足の様なものが見えたが、それ以上は傘が邪魔で確認できない。

 「何をしている!」

突然の声にやや驚き、風野はドアから跳び下りた。トイレの入り口に初老の男が立っていた。教頭だ。

「風野!? こんな所で何をしている?」

教頭は少し驚きながら言った。優等生の意外な行動に当惑している様だ。

「中の様子を見ていたんです」

風野が平然と答える。本当のことには違いがなかった。

「何故?」

ついていない。風野はそう思った。朝は佐々木に絡まれ、今は教頭からの質問攻めだ。

 よっぽど喋る度に動く頭皮を突っ込んでやろうかと思ったが、やめた。長い説教は御免だった。

「鍵が閉まっていて、ノックしても返事がなかったんです」

「覗く必要はないだろう」

風野は肩を竦め、床の血痕を指差し言った。

「中に傘と人の様なものが見えました」

教頭はすぐさま何か言おうと口を開けた。が、何も言わずに閉じてしまった。

 沈黙。

 暫くして、教頭は何を思ったかトイレから出て行った。風野が呆然と立っていると、直ぐに教頭が戻ってきた。後ろに二人の職員が付いている。手には金槌が握られている。

 やりたいことは嫌でも解る。風野は再び肩を竦めた。

 職員らは、ドアの取っ手を金槌で殴り始めた。内側の鍵とつながっている金属取っ手を壊せば、鍵が外れるのだ。ドアの上の隙間から中へ入り、鍵を開ければ良いのだが・・・。

 金属音が耳鳴りの様に鳴り響く。トイレという狭い空間で木霊する高い音は、耳を裂く勢いだ。

 

 バキッ!!

 

 打ち始めて約二分。ようやく鍵が外れた。ゆっくりと扉が開く。

 異臭の濃度が上がる。

 血塗れの黒い傘。その向こうには、壁に凭れ掛かり額に穴が空き、血に塗れた佐々木の死体が在った。

 

◆◆◆

 

 夜の静けさは、孤独の色にも似ている。近所に家が無い、丘の上の風野の家は、一層それを感じさせた。微かに二年前を思い出す。

 窓の向こうのネオンはいつもと同じように光っているが、風野にはそれがすごく遠くのものに見えた。

 灰皿の上の煙草は十二本を数える。

 風野の中には悲しみは無かった。だが、何か言葉では言い表すことのできない感情が在った。

 自分を縛っていた鎖から解き放たれた感じにもなれた。・・・・・・メールさえ来なければ。

 午後十一時。風野の背に寒気が走った。

 メールを開いてみる。・・・・・・案の定だ。

 差出人は不明。「おめでとうございます。あなたの『Death Game』参加が決定しました。これより百六十八時間後、あなたのゲームがスタートします」

 内容は全然目出度くなかった。文章は続いている。「尚、ゲームに関することにつきましては、ホームページをご覧下さい。Death Gameと入力した後、スペースを空け、あなたの名前を入力し、検索することでページが表示されます」

 今更言うことでもないが、ネットは無法地帯だと風野は思った。それでページが出てくるのならば、個人情報が垂れ流しということだ。

 風野は、それでも一応検索してみることにした。『Death Game 風野慎』。検索を掛ける。

 パソコンの低いドライブ音が部屋に響く。数秒後、ページが表示された。

 「ここは、風野慎様専用の『Death Game』公式ページです」改めて無法地帯だと思った。

 色々なアイコンが在ったが、取合えず『ルール説明』をクリックする。すると、画面一杯に色々な図と、文字の羅列が現れ、長々と説明文が続いている。

 風野は溜息をついた。そして、深呼吸をして、説明文の斜め読みを始めた。

 それによると、『Death Game』は、指定されたターゲットを殺していくゲームらしい。ターゲットはゲームの参加者は勿論、ゲームに参加していない者も居るという。指定されたターゲットはプレイヤーによって違い、もし、ターゲット以外を殺してしまった場合は、自分をターゲットとするゲームプレイヤーが急増する。他にも、一週間以上誰も殺していなかったり、参加人数が多くなり過ぎたりすると、ゲーム参加者をターゲットとする他のゲーム参加者がそれぞれ増えるのだ。逆に参加人数が少なくなると、ターゲットを減らすらしい。

 ターゲットを殺すと、賞金を貰えるらしいが、ゲームのクリア方法は書いていなかった。

 ゲームとは名ばかりの悪質な殺人だった。

 だが、風野はこれに好感を持てた。くだらなくて生きている気のしない世の中よりも、死に近い所に居て、生を感じる方が良かった。

 風野は『ルール説明』を閉じた。『ターゲット表示』というアイコンが在ったが、今の所は半透明になっており、開くことができなかった。『デッド・ターゲット』というアイコンをクリックする。

 すると、画面に日時と名前がズラリと並んだページが表示された。それは、殺されたターゲットが日時の新しい順に並べられたものだった。

 上から二番目に佐々木の名が在った。それをクリックすると、佐々木の詳しい死の状態が文章で表示された。

 風野の脳裏に血塗れの佐々木の姿が甦る。

 

◆◆◆

 

 あの後、教頭の通報で警官が駆けつけた。事情聴取を一時間程されたのだった。

 警官らの検死の結果、死亡推定時刻は午後一時頃。丁度昼休みである。至る所で生徒や、職員が活動している中で、外部からの犯行とは考え難い。つまり、犯人は生徒か職員ということになる。

 傷口からして、銃による犯行と見て間違いないだろうとしており、実際、壁に四十五口径の銃弾が埋め込まれていた。だが、銃声を聞いたという情報が無い為、銃にはサプレッサー(消音器)が付いていたのであろう。

 一緒に転がっていた傘には、一箇所に直径約三センチメートルの円形の穴が空いていた。恐らく、傘を広げた状態で、穴から銃身だけを反対側に出して、返り血と硝煙を浴びないようにしたのであろう。

 

◆◆◆

 

 そこまでが警官らの推理だった。

 だが、風野はこのページを確認し、更に解ったことが在った。

 一つは、校内に『Death Game』の参加者が居ること。その参加者がこの事件の犯人に違いない。イニシャルはT・E。それは、このページに佐々木を殺したプレイヤーのイニシャルが表示されていたからだ。学校の職員に苗字が『え』から始まる者はいない。故に、犯人は生徒である。

 もう一つは、この事件とは直接は関係が無いが、このゲームのプレイヤーは、常に何者かによって監視されているのであろう、ということだ。実際に見た訳ではないが、確信は在った。

 殺した本人がこんなページを作る筈がない。

 それに、動向をチェックしておかねば、プレイヤーが誰かを殺したとしても分かる訳がない。そもそもこんなページを作ることができる筈がない。

 だが、今の所、表示された数字が正しいのならば、参加人数は七十三名。プレイヤー一人に対して監視一人というのは明らかに無理がある。最低でも三人は要る。となると、例え首謀者が一人であっても、実際に活動しているサポーター的存在は、二百二十名程は存在することになる。

 だが、これらを知ったからと言って何の特にもならない。一つ目の方も職員や、警官に伝えることなどできようもない。『Death Game』の存在、そして、それに自分が参加していることがばれてしまう。

 とにかく、一旦これらのことから離れることにした。『デッド・ターゲット』を閉じる。続いて『ガンショップ』というアイコンをクリックした。

 様々な銃の写真、名前、値段が画面に広がった。全て実銃の様である。だが、その値段がとんでもないものだった。全てが、エアガン並みの値段なのである。

 一番初めに目に付いた銃の写真をクリックしてみる。すると、その銃の詳細が表示された。

 風野は、順にそれぞれの銃の詳細を読み始めた。だが、それも長くは続かず、途中で断念した。何せ量が多過ぎる。千挺近く在るのだ。

 写真だけ眺めていく。

 暫く見ていると見慣れた銃が現れた。S(スミス)&(アンド)W(ウェッソン)M60。風野が所有しているガスガンと同じもの。当然画面の中のものは本物だが。値段は二万五千円。

 風野は、それを買うことにした。銃弾も五百発購入する。それでも三万円を少し切る程度だった。

 注文した物は二日後に届けに来るという。又、注文してから四十八時間以降であれば、受け取る日時と場所を指定できるらしい。何れの場合にせよ、料金は受け取る時に現金で払うそうだ。

 注文を終了すると、『ガンショップ』を閉じた。次のアイコンをクリックする。

 風野は、今迄どの画面を見た時でも大方冷静だった。だが、このページで少し冷静さを欠いた。

 『Death Gameのルーツ』。又、長々とした文字群が出てきた。風野は、それを斜め読みする。

 Death Gameは『Kill Game』というものを元にして作ったらしい。

 Kill Gameというのは、過去に殺し屋の間で流行ったという一種の殺し方である。一番初めに行ったのは、デンダ・ルークという殺し屋だそうだ。それは、警官に追われていた彼が、自分は身を隠す為に、裏社会とは何ら関わりを持たない自分の弟に殺しをさせた、というものだった。一八九七年の話である。

 それは、裏社会で忽ち広がり、殺しを一般人にさせる者が沢山出てきた。この殺し方は、更に様々に形を変えて長期に渡り殺し屋の間で重宝されてきた。

 そして、Kill Gameのルールが、一九八二年、グールド・バドという男によって確立された。

 それは、一般人を五〜七人集め、殺し屋が殺して欲しい人物の名と、体の一部分を言い、集められた一般人は、その人物を殺し、その人物の指定された体の一部分を持ち帰る、というものだった。一番に持って帰った者以外や、途中で逃げ出したり、協力しようとしたりする者は、クライアントである殺し屋が、予め彼らに仕掛けておいた遠隔起動爆弾によって殺すのだった。殺し屋たちの間では、その集められた一般人は『手駒』と呼ばれていたらしい。

 つまり、風野を含めたこのゲームの参加者は、このゲームの首謀者の『駒』ということになる。

 風野は、自分が使われることを極端に嫌った。このゲームに於いて、風野は明らかに「使われる」存在になる。

 風野の中に怒りが込み上げてきた。と同時に、このゲームの唯一のクリア方法を見つけた。

 このゲームに勝つ(・・)自信が有った。


 

 

   2.別離

 

 翌日から、校内でよく警官を見掛けるようになった。

 例の傘には指紋は残っていたものの、犯人を探す手掛かりにはならなかった。学校側が自由に使って良しとして置いていた貸傘だったが故に、指紋が余りにも多種類在った為だ。色々な指紋が混ざり合って、訳の分からない状態になっていたのだ。

 警官は不振な者、例えば、目が合うと直ぐに逃げる等をしている生徒を調べることにしていた。

 職員は、犯行が起きた時刻皆アリバイが合った為、全員白であることが分かっている。

 だが、そんなことで見つかることなど無いと風野は踏んでいた。大した根拠が在る訳でもないが、『Death Game』を知らない限りは見つけることはできないだろう、と。

 

◆◆◆

 

 二日などあっと言う間に過ぎてしまうものだ、と風野は思った。物事がくだらないと時間が長く感じると言うが、余りにもそれに慣れすぎてきた為か、一日がいやに短く感じられる。

 風野は、つい先刻届けられてきた小包を手に取った。無地のダンボールは結構重い。開けなくても中身は既に分かっている。

 これを届けに来たのは、黒いサングラスに黒いスーツで、ネクタイ、革靴まで黒という全身黒尽くめ(ワイシャツは白)の見るからに怪しい男だった。恐らく、と言うよりも、絶対にDeath Gameのスタッフだろう。

 ガムテープを剥がし、ダンボールを開けた。木製のグリップを持った白銀の小銃と、大量の弾丸が姿を現した。

 風野は銃を手に取った。外見はガスガンと殆ど同じだが、重さは違った。

 シリンダーをスイングアウトし、袋の中に入っている銃弾を一つ一つ取り出し、五つの穴に嵌め込んでいく。

 装填が終わると、シリンダーをリセットし、銃口を風野のベッドの枕元の棚に置いてあるデジタル置時計へ向けた。

 ハンマーを起こす。銃口から時計までは、3メートル程離れていた。

 トリガーを引いた。

 凄まじい音が鳴ると同時に、時計は大破した。ガスガンで高めた命中率は、実銃でも生きていた。

 風野の口元から笑みが零れた。

 

◆◆◆

 

 それからの五日間は妙に長く感じられた。特別大したことが在った訳でもなく、強いて言えば警察側が全校生徒に対して家宅捜査を始めたこと位だ。

 全校生徒なので全てを終了する迄には時間が掛かる。風野の家を調べられるのはまだ先だった。

 

◆◆◆

 

 あのメールから一週間。

 風野はネットを開き、自分のDeath Gameのページを開いた。

 暫く『デッド・ターゲット』を見ていたが、時間が来たので閉じた。

 午後十一時。

 半透明だった『ターゲット』のアイコンが不透明になった。クリックする。すると、三人の顔写真と名前が出てきた。

 ターゲットの人数は決まっていない。増えたり、減ったりする。又、偶にターゲットが変わったりすることも在るらしい。

 風野のターゲットは今の所三人だ。

 写真をクリックするとその人の詳細を見ることができるが、今の風野には必要ない。

 ターゲットを確認した風野は微笑した。

 

◆◆◆

 

 次の日。

 空は晴れ渡っていた。五月だというのに、初夏の日差しさえ感じられる。

 風野は、いつものように音楽を聴きながら登校した。外見は何ら変わりが無いが、内心は結構気分が高かった。

 どうやってターゲットを仕留めるかを考えるだけで血が騒いだ。それは、内ポケットに忍ばせている銃の所為でもあるのかもしれない。警官に見つかるかもしれないという不安も恐れも全く無かった。

 人を殺すということに、抵抗など微塵も無かった。

 

◆◆◆

 

 その日の下校時。風野としては珍しく友人らと帰っていた。テスト期間中ということもあり、部活が休みの人も多かったから、という理由と、もう一つの理由が在った。

 「良いよなぁ、風野は」

「ん?」

友人らの言葉に対し、自転車を押しながら歩く風野は軽く返す。

「テストなんてヨユーじゃん」

「あぁ」

風野は素っ気無く返す。

「ぁあ、何か今ちょっと傷付いた!」

友人らがふざけながら喋っていたが、風野の耳には半分も入っていなかった。

 暫く行った所で、風野がふと足を止めた。

「どしたの?」

「いや・・・」

言った後「そろそろか」と呟いた。友人らが怪訝そうな表情を見せる。

「俺、用事在るから」

そう言うと、風野はイヤホンを耳に付けながら路地へと入って行く。

「おい待てよ、風野」

友人らの言葉に対して、風野は振り返ることも無く、手を軽く振って返した。

 残された友人らは、暫く突っ立っていた。

「何だ?あいつ・・・」

 人っ子一人としていない薄暗い路地を暫く進むと、廃工場に着いた。壁には至る所に穴が空いている。

 中に入ると、自棄に涼しかった。機材等は全て撤去されたらしく、中はガランとしている。つい先日までは在ったのだが。

 風野は偶にここに来ていた。考え事をする時や、少し危険なことをする時等に。ここで友人らとエアガンでゲームをしたことも何回か在った。

 風野は自転車を適当なところに停めると、廃屋の中央に立ち、煙草を取り出した。鉄製のライターを取り出し、火を点ける。白煙がゆっくりと立ち上った。

 少しして、イヤホンを外しながら言った。

「楽しい?」

風野が工場の入り口に視線をやる。返事は来ない。

「かくれんぼは楽しい?」

「・・・」

微かに溜息が聞こえた。風野も溜息を付く。

「ウザイね。バレバレなのにこそこそ付き纏う奴」

風野が嫌味を込めて言う。

「流石ですね」

入り口から学ランを着た男が現れた。ボタンは一番上までしっかりと留めており、ホックまで掛けている。着崩しという言葉が彼の中には無い様だ。見ていて些か暑い。手は後ろに持っていっている。

「あんなに周りに人が居ては、近づくことなどできませんでしたよ」

真面目そうだがもてるのであろう端整な顔には、うっすらと笑みが零れている。

「同じ高校?」

風野が訊く。右手では、ライターの蓋を開けたり閉じたりしている。

「えぇ。僕は、一年の江川徹です」

その名に風野も聞き覚えが在った。入試をトップでクリアし、入学式で式辞を読んだ生徒だ。その後の学校生活に於いても職員からの評判が頗る良い。

 江川は、ゆっくりと風野に近づき、四メートルほど距離を置いた所で止まった。

「で?」

風野が短く質問する。

「あなたを殺しに来たんですよ、風野先輩」

江川がゆっくりと答えた。もったいぶった様な口調が、風野は気に入らない。

「へぇー」

風野は、特に何の感情も込めずに言った。同時に学ランのボタンを外していく。

「殴り合いで殺す訳じゃありませんよ」

そう言うと、江川は後ろに回していた右手を前に持ってきた。その手には大き目のサプレッサーが付けられた銃が握られている。その銃口を風野へと向けた。

「コルトガヴァメント、一九一一年モデル。アメリカのコルト社が作り出した名銃中の名銃。今でも世界中に多くのファンが存在する」

風野は、江川の銃を見て呟くように言った。右手では、尚もライターを弄っている。

「言っておきますけど、本物ですよ」

「だろうね」

江川の言葉に対し、風野は軽く返した。

「驚かないんですね」

江川が怪訝そうに言った。

「佐々木殺したな」

江川は答える代わりに笑みを漏らした。

「時間稼ぎのつもりでしょうけど無駄ですよ。長く話しても仕方ありません。どちらにしても、あなたは死ぬのですから」

江川が、半ば呆れ口調で言った。

 銃を構え直す。

「死んでもらいます!!」

江川が叫ぶと同時にトリガーを引く直前、風野は持っていたライターを江川の銃目掛けて投げた。

 銃口から飛び出した弾丸は、ライターに当たり弾道が反れた。

 風野は一気に近づき、うろたえる江川が持っている銃を蹴り落とす。よろける江川の襟刳を掴み取り、腹に膝蹴りを入れる。そして、取り出した銃を江川の額に当てた。

「銃向けるんなら、死ぬ覚悟はできてるよね」

風野は口元から笑みを零した。いつも通りの無音の笑み。

「な・・・んで・・・?」

江川は、この状況が信じられない様だ。目を見開いて固まっている。

Death Game。あんたは俺のターゲット」

風野が言った。江川は何か言いたそうだが、口を小さく開閉しているだけだ。

 風野がハンマーを起こすと、江川は言葉を発した。

「ねぇ、先輩。因果応報って言う言葉知っていますよね?自分のやった行為は、必ず自分の所に戻ってくるんですよ。だから、先輩もいつか殺されるんです。今の僕の様に」

そこまで言うと、江川は一旦間を置いた。そして、続ける。

「このゲームには、クリアする方法なんて無いんだから」

江川が笑みを浮かべた。冷笑。風野が笑みを返して言った。

「在るさ。一つだけね」

 

 ガウゥン!!!・・・・・・

 

 工場内に銃声が響き渡った。

 温かい死体は、自らの鮮血へと身を崩した。返り血を軽く浴びた。

 初殺。罪悪感は無かった。後悔も無かった。ゲームは始まったばかりだ。

 風野は煙草を捨て、工場の入り口付近に在る水道で肌に付いた血を洗い流した。幸い、服は殆ど汚れていない。

 「さて、と」

風野はイヤホンを取り出し、自転車に跨る。そのまま振り向くこと無く工場を後にした。

 次の仕事が待っている。

 

◆◆◆

 

 夕方の校長室はオレンジ色に染まり、校内であることを忘れさせるほど美麗に見えた。

 書物のぎっしり詰まった本棚が壁を埋め、その上には歴代の校長の写真が並んでいる。部屋の中央には大理石で造られたテーブルが在り、その周りには立派なソファーが在った。その奥には樹でできたこれもまた立派な事務机が在り、それの、まるでソファーの様な椅子に校長が座っている。机を挟んだ向かい側には風野が立っていた。

 「何の用かね?風野君」

校長が偉そうな口調で言った。風野は、ポケットから白い紙を取り出した。

「学校を辞めさせて頂きます」

紙には、『退学届』と書かれていた。校長は、風野をじっくりと舐める様に見る。

「煙草の匂いがするなぁ」

校長が、ボソッと言った。そして、話を元に戻す。

「退学と言ってもだね、そう簡単にはできないのだよ」

校長が、葉巻に火を点けながら言う。生徒の前で煙草を吸うことは、校長として良いものではない。自分の肩書きに酔い痴れ、踏ん反り返っている社長を連想させる。

「只では出て行きません」

風野は、注意して見ないと分からない程度の薄笑いを浮かべて言った。ポケットに両手を入れる。校長は、訝しげな表情を見せた。

「校長先生、あなたには素晴らしいプレゼントを、二つ用意しています」

校長は葉巻を灰皿に押し付けた。風野の物言いが気に入らなかった様だ。風野は気にせず続ける。

「まずは、情報です。佐々木を殺した犯人をお教えします」

校長に驚きの表情が見えた。

「一年の江川徹です」

風野の言葉に、校長は驚愕した。

「何を言っとるんだね。あの江川が犯人だなんて。優等生だぞ。有り得ん!」

 確かに江川は、職員の間では優等生で通っていた。だが、色々と危険なこともやっているという噂が生徒の間では流れていた。目撃者や、協力者までも存在する為、この噂は真実であろう。そういう点では、風野に似たような所も在ると言える。

 風野は続ける。

「先程殺されましたが」

驚きの中に、疑問の表情も見えた。「誰に?」と問い掛けている。

「もう一つ」

風野は、校長の疑問に直接は答えなかった。学ランのボタンを上から開け始める。

「プレゼントです。・・・取って置きの」

第三ボタンまで開けると、右手を懐に入れる。

「手ぶらで逝くのも何ですし」

風野は銃を取り出した。銃口を校長の額へ向ける。割と広く、狙い易い。

 校長は咄嗟に手を挙げ、席を立ち、数歩後退った。その拍子に、椅子が後に倒れる。

「な、何の真似だね」

校長の声は、冷静さを欠いたものだった。顔から見る見る血の気が引いていく。

 風野が一歩前に出ると、校長は椅子に足を取られ、よろめきながら壁際まで下がった。顔には、何とか平静を取り戻そうとする努力は見られたが、明らかに強張っている。手が震えている。その手が壁を探っていた。風野はそれに気が付いていたが、無視した。

「受け取って下さい」

 風野がハンマーを起こすと共に、甲高いジリリリリリリ・・・・・・≠ニいう音が鳴り響いた。直後、風野の銃が火を噴き、銃弾が校長の額へと吸い込まれた。貫通はしなかった。頭内部に銃弾が残ったらしい。

ターゲット(・・・・・)は崩れ落ちた。

 校長の後ろには、火災時用の警報器が在った。それがけたたましい音を立てている。風野は、その上の窓に足を掛けた。校長室は二階。地上から高さ四メートル余り位だが、下は芝生だった。大丈夫だろう。

 風野は飛び降りた。

 

◆◆◆

 

 黒服の男がやって来た。その男は、風野に小包を渡すと去っていった。風野はその中身を知っていた。十分前に予約した、今日殺したターゲットの賞金だ。賞金も武器と同じように予約するのだが、武器と大きく異なるのは、予約後十分以降ならばいつでも良いということだ。

 今回得た賞金は、校長が七十万、江川が百五十万だった。賞金の説明によると、そのターゲットを殺すに当っての難易度によって金額が違うという。又、ターゲットがゲーム参加者の場合、その賞金は普通よりもやや高くなるらしい。

 ターゲットを確認してみると、四人程追加されていたが、知った名前は無かった。実際、風野は余り他人に干渉しない為、他の人よりも知人等が少なかった。ラジオは聴くが、テレビは見ないということも、知人が少ない一つの原因かも知れない。

 風野は、上から二つボタンを外したカッターシャツの上に、青い薄手の上着を羽織った。ズボンは黒。白いシャツと黒いズボンは良く合うと、過去に誰かが言っていた。これが風野の外出時のいつもの服装だ。流行等は余り気にしなかった。動き易い格好を好んだ。一時ジーンズも履いていたが、動き易さという点では余り評価できなかった。

 愛用の黒いリュックに詰め込みをする。風野は、このゲームに参加する為と、生きる為の必要最低限の物のみ入れた。

 余り沢山入れたつもりは無かったが、入れ終えて持ってみるとズッシリ重かった。風野は舌打ちした。銃弾だ。だが、詰め直すのも面倒だ。持ち運べない重さではない。このままにしておくことにした。

 上着の胸ポケットにライターを入れる。右の内ポケットに煙草とウォークマン。左の内ポケットにM60を入れた。ついでに左右のポケットに銃弾を少しずつ入れておいた。どのポケットもマジックテープで止めることができる。激しく動いても、まず落ちることは無いだろう。最後にズボンのポケットに財布と、携帯灰皿を入れる。

 支度を終えると、風野は部屋に用意していた灯油の入ったタンクを持ち上げた。蓋を開け、ラインを引く様に少しずつ零しながら全ての部屋を廻った。玄関を出た直後で、丁度タンクが空になった。それを家の中へ放り込み、灯油の導火線の先端に火を点けた。

 炎は、獲物を追う獣の様に家の中へと走って行く。

 風野はイヤホンを耳に付け、煙草を取り出した。火を点け、煙を吸い込み、溜息と一緒に吐き出した。

 街には、様々な光が賑やかに輝いている。気のせいか、いつもよりも騒がしい。

 風野は街に背を向けた。少し先に森が広がっている。炎が、家を包む前に立ち去るのだ。夜空には星が瞬き、満月が見下ろしている。今宵の道案内役だ。風野は微笑した。

 

◆◆◆

 

 ―――は、広い暗室でパソコンを見て(・・)いた(・・)。正確には、画面に映っている人物を見ていた。無邪気な子供の様な笑みを浮かべながら。

 「父さん、聴いて」

―――は、静かに言った。

「とってもすごい『駒』を手に入れたよ」

―――は、傍に置いている写真に話し掛ける様に言った。

「これで、父さんの夢に又一歩近づいたよ」


 

 

   3.煙草

 

 台風が過ぎ去った翌日。昨日の嵐が嘘だった様に晴れ渡っている。周りに木が多い所為か、蝉の声が自棄に五月蝿い。

 夏休みも半ばに入った。宿題は全て終えていたが、二日後には入試対策模試が控えている。

 丘の上に在る家からは、街の景色がよく見える。街の方では自分が今感じているよりも、ずっと早く時が流れている様に見える。蝉の声で音は聞こえないが、パトカーが赤い目を光らせ突っ走っている。商店街やデパートには人が寄り集まっている。公園では、子供達が必死でボールを追いかけている。

 風野は窓を閉めた。クーラーを点ける。涼風が汗を乾かしていく。

 「しーん」

階下から風野を呼ぶ声がした。風野容子(ようこ)。風野の母親だ。

 容子は今日から三日間、夫、つまり風野の父である風野(かつ)(しげ)と旅行に行くのだ。

「もう行くけど、本当に行かないのぉー?」

容子の声が階段を駆け上がる。

 勝重は警官だ。役職もまぁまぁ上の方だ。仕事に対する思いはかなりのものだったが、それ以上に家族を愛していた。そこで、この夏休みに家族旅行でもしようと、二ヶ月前からやや無理を言って休みを貰ったのだった。

 「あぁ」

風野が答える。

「テストは多く受けておいた方が良いから」

 丁度その休みに模試が入ったのだ。

「又次の機会に行くから。今回は二人で楽しんできて」

「了ー解」

容子の明るい声が返ってきた。風野が行けないにしても久々の旅行に浮かれているのだろう。風野は溜息と共に微笑を零した。

 

◆◆◆

 

 夏の七時はまだ少し明るい。丁度夕暮れ時だ。相変わらず蝉の鳴き声はしているが、昼間に比べると気温はやや下がっている様だ。部屋の中には西日が差し込み、オレンジ色に染めている。全開の窓からは微風が入ってきている。カーテンがそれに合わせて軽やかに揺れる。

 その窓の直ぐ脇に在るベッドに風野は寝転がり、本を読んでいた。勉強ばかりしていると流石に飽きる。その為、何か別のことをしようと思ったが特に見つからず、何となく過去四回読んだことのある本を開いているのであった。

「・・・・・・」

 暫くして風野は起き上がった。割と分厚い本だが、一時間もしない内に読み終えてしまった。家に在る本は、全て一回は読んだことがあるので、他の本も恐らく今の本と同じ様に余り読み応えが無いだろう。

 辺りはいつの間にか薄暗くなっていた。蝉の声も止んでいる。街の方ではネオンが輝いている。人工的な光でも中々美しく見えるものである。

 窓の外を眺めていた風野の視界の端に、白い布の様な物が風で微かにちらついているのが入った。

「あ・・・」

風野が小さく声を上げた。洗濯物を取り込んでいなかった。外に出て触ってみると、案の定夜露でやや湿っていた。まぁ、大丈夫だろう。風野はそれらを取り込むと、気にすることなく全て畳んでいった。

 畳み終えると同時に電話が鳴った。「母さんか・・・?」と思ったが、ナンバーディスプレイを見ると初めて見る番号が表示されていた。携帯からの様だ。

「・・・・・・」

取るか取るまいか迷ったが、六回目のコールで受話器を持ち上げた。

「はい」

「風野さんのお宅でしょうか?」

年配の男の声だった。電波が悪いのか、変声器でも使っている様な声だ。もう少し野太ければ、マフラーを前でぐるぐる巻いている芸能人そっくりだ。

「そうですが」

「風野慎君ですか?」

質の悪い悪戯電話だろうか。

「どちら様?」

風野は、「そうですが」の言葉の中に含んでいた言葉を言った。

「あぁ、失礼」

男は、声の調子を特に変えることなく言った。本当に失礼だと思っているのか。

「私は、森沢市中央警察署の河上という者です」

「あぁ、河上叔父さん? 声が老けたな」

勝重と同じ署で働く、慎の叔父だった。小学生の頃にはよく会っていたが、最近は全然見掛けもしなかった。記憶が正しければ、名前は(まさ)(ひで)

「少し風邪を引いてね」

「・・・・・・で?」

風野が短く訊いた。河上は直ぐには答えなかった。数秒開けて切り出した。

「慎君、落ち着いて訊いて下さい」

そして、又間を置く。受話器の向こうで深呼吸をしているのが聞こえた。

「・・・いいよ」

言ったのは風野だった。初めの『い』にアクセントが付いていた。拒否を表している。慎が続ける。

「大体解ったから。場所だけ教えてくれれば良い」

 

◆◆◆

 

 街中はいつも騒がしいものだが、この交差点は特に騒がしかった。街のネオンに加えて、朱いランプが数個目を光らせている。ここをよく使う者であれば、遠くから見ても普段と様子が違うことが解るだろう。

 道路には数台のパトカーが在った。警官が数人忙しく動き回っている。大方は、テープを越えて無理矢理現場の様子を確認しようとする野次馬の排除の為の様だが。

 交通事故だ。ダンプと普通乗用車が、それぞれ一台ずつ警官の張ったテープの中に停まっている。尤も、ダンプは前部が軽く凹み、乗用車は拉げた状態であるが。

 ダンプの運転手は軽傷だったが、乗用車に乗っていた二人は即死だった様だ。死体にはブルーシートが被せられている。

 検証が粗方済んだ現場の中央では、私服警官数人が会話をしている。

「我々の、これ(・・)に関する仕事は大体終わったな」

夏だというのに黒いスーツをしっかり着込んだ、少し年の行った警官が言った。

「いえ、まだ全てが終わった訳ではありません。ここからが本場ですから。またあなた方の手をお借りすることも在るでしょう」

カッターシャツを着た四十代前半の男、河上が丁寧に言う。

「でも、河上さんも大変ですねぇ。あ、慎君はもっと大変かぁ」

ここに居る私服警官の中では一番若い男が言った。

「彼なら大丈夫だろう。乗り越えられるよ」

河上が、その若い刑事に向かって言った。語調こそ強くはなかったが、その声には万人を納得させるものが有った。

「叔父である河上君がそう言うんだ。大丈夫だ」

スーツの刑事が若い刑事に言った。そして、河上に向き直り言う。

「では、後は君に任せたよ。必要な時には呼んでくれ」

河上は黙って頷いた。スーツの刑事は、軽く河上に手を振って去っていく。それに続いて、他の私服警官たちも現場を後にしていった。

 河上が回りの様子を見てみると、殆ど事の収拾は付いていた。見物人の数も大分減っている。見物人にとっては、そこで起きた事に興味が在るのであり、それによって誰がどんな被害を受けるのかということには関心など特にないのであろう。誰しも、他人への同情よりも、自分への愛着の方が勝るのだ。それが、今世の中を動かしている人間なのだ。

「自分も同じか・・・」

河上が自嘲気味に呟いた。

 停車音が聞こえた。河上がそっちを見ると、黄色いテープの向こう側にタクシーが停まっていた。そのタクシーから自分の甥が出てくる。

 事実(・・)を伝えた。

 

◆◆◆

 

 風野は自分の家で暮らすことを選んだ。叔父からは、暫く叔父の家で暮らすことを勧められたが断った。

 妙に家が広く感じられる。三人で暮らしていた時から空き部屋が在ったのだ。一人になった今では、毎日使う部屋の方が少ない。

 一日の大半を自分の部屋で過ごした。両親が亡くなる以前から自分の部屋に居るのは大抵自分だけだったからだ。他に使う所と言えば、キッチンとトイレとバスルームくらいだ。

 事故から三日ほどは家に閉じ篭っていたが、次第に広い家が感じさせる孤独に耐えられなくなってきて、外に出ることにした。

 内ポケットからイヤホンを取り出し、耳に付ける。ウォークマンの電源を入れ、この数日間何百回聞いた曲を掛ける。

 丘を下るに連れて蝉の鳴き声は小さくなっていき、代わりに街の喧騒が聞こえ出す。この時の慎にとって静寂ほど怖いものは無かった為、僅かながらも救いになった。

 街に着いても行く当てなど在る訳がなく、適当に足が進むに任せてブラブラと歩く。悲しみよりも寂しさを感じていた慎は自然と人の多い所を選んだ。

 

 そんな日が一週間程続いた。

 

 その日は曇りだった。だが、気持ちは大分落ち着きを取り戻していた。いつもの様に当てもなく街を歩く。

 ふと足を止めた。

「・・・・・・」

何かを感じた。・・・気がした。それが何であるかは解らないし、本当にそれを感じたのかも分からない。振り向いてみたが、何か在るという訳でも無く、取敢えず人が居た。特に風野を気にしている者が居るという訳でも無い。上を見ると、雲は朝家を出た時よりもずっと重みを増している。間もなく雨が降り出すだろう。

 再び歩き出す。心做しか、周囲の人が早足になっている。自分のペースで歩く風野を次々と追い抜いていく。流れることは好きだが、流されることは嫌いだった。他にペースを合わせる必要など無い。

 そうやって暫く歩いていると、遠くの方から雷鳴が聞こえてきた。同時に道路に水の跡が生まれ出す。その跡は次第にどんどん広がっていく。

 そう言えば久々の雨だ。最後に降ったのは事故の前日の台風の時だ。あの時程はひどくはならないだろうが、思い切り降ってくるだろう。夕立だ。

 また足を止めた。空がぶつけてくる哀しみに耐え切れなくなった訳ではない。空耳だろうか。誰かに呼び止められた気がした。

 雨は底無しのバケツを逆さにして、中の水を勢い良く吐き出しているという感じだ。風野の全身は服のままプールに飛び込んだような状態になっている。過去に、本当に服のままプールに飛び込んだことがあった。もう大分前のことだ。具体的なことは思い出せない。

 風野は後ろを見た。傘を指して足早に歩く人や、濡れながら小走りをしている人がいたが、自分の名を呼んだ者はどうやらいないようだ。やはり空耳だったか。

 前を見て歩きだそうとしたが、止めた。左を見ると、薄暗い路地の入り口になっていた。今までこれに気付かなかったのか・・・。人が居る訳ではない。ただ、猫が居た。黒猫だった。路肩に積まれている木箱の上で雨に濡れながら、風野をじっと見ている。

 

 猫が鳴いた。

 

 雨で声は聞こえなかったが、風野はそう思った。

 次の瞬間稲光が瞬き、一瞬視界がフラッシュした。直後轟音が聞こえる。どこか近くに雷が落ちたらしい。

視界が戻った時には猫の姿は消えていた。

 変化(・・)に気付いたのは、恐らくその変化(・・)が起きてから一分程してからだろう。

 雨が止んだ―――気がした。

 雨は降っていた。だが、風野に水滴は当たっていなかった。振り向くと男が居た。持っている茶色い傘を風野の上に翳している。

 男のトレンチコートは雨に濡れて、やや焦げ茶色に近くなっている。特に整理をしている訳でもなさそうな灰色の髪の下の垂れ目と、やや笑みに歪んだ口、そして無精髭が何となく嫌らしい。

 何歳なのだろうか。髪は染めている訳では無さそうだ。顔にもそれなりに皺は在る。だが、そこまで老いている訳でも無い気がする。顔だけ見ても四十代後半から五十代位だ。そんな微妙な風体は、それでも違和感をそこまで与えるものではなかった。

 それよりも、誰であるのかが問題だった。何処かで会った訳ではない。見知っている訳でもない。一方的に向こうが知っているだけなのだろうか。

 男が口元の笑みを深めた。その表情は思ったよりは嫌らしくない。

「風邪引くぞ」

別に。―――いつもの風野ならそう言っただろう。だが、何も言わなかった。いや、言えなかった。年季が入った様な声の中に、何処か温もりの様なものを感じた気がした。

「まだもう暫く降りそうだな」

男が独り言の様に言った。依然傘は風野の上に在り、男は濡れている。

「オレの(うち)が近くに在るんだ。寄って行くと良い」

この状況で言われると、それは「寄れ」と言っている様なものだ。「知らない人には付いて行かないように」―――小学生の時、教員が何度も言っていたことだ。思い出すと、ふと笑みが零れてきた。何日振りに笑っただろうか。最後に笑ったのが随分と昔のことに感じる。

「どうした?」

 風野が笑う時は、大抵声を出さず口を歪める程度だ。今もそうだったが、男はそれを見落としていなかった様だ。

「いや」

風野が言った。人と会話することも久し振りだ。いや、言葉を発すること自体、最近は無かった。そして言った。

「誰?」

 

◆◆◆

 

乱雑なのか整理されているのか判別が付かない。物に溢れている訳ではないので整理されているのだろう。だが、それでも乱雑だと思わせるのは、そこに在るものに、床や壁等も含め、年季と傷が入っているからだろう。殆ど木製ということもそれを引き立てているのかもしれない。

湿った空気の中に、酒と煙草の匂いが混ざっている。これが淀んだ空気というものだろうか。だが、そこまで不快感は無い。むしろ、この建物には似合っていると思える。慣れれば気にもならないだろう。窓を叩く雨の音も、また心地良い。

白髪の男、木田(まさ)()はこの居酒屋を営んでいる。路地の奥の方に在って、昼間でも店内は薄暗く、常に電気を点けておかなくてはならない。それでも客の入りは少なくは無かった。

しかし、今の客は一人きりだ。尤も、今日は定休日なのだが。

その客は、ここを訪れるにはまだ若過ぎる。見た目、歳は十五、六だろうか。染めている訳では無さそうだが茶色掛かった髪をしている。眉に掛かるほど有る前髪はスッと下ろされている。真ん中でやや分けられているが、違和感は全くない。首の真ん中辺りまで有る後ろ髪は、微妙に外に跳ねている。形の良い顔は一見感情というものを欠いている様な感じだが、よく見ると無表情とは言えない、といった感じである。やや細いが、鋭く尖った目をしている。服装は、上二つのボタンを外したカッターシャツに黒のズボン。それらはびしょ濡れになっている。カッターシャツは透け、下に黒いTシャツを着ていることが分かる。ズボンのポケットからは、イヤホンが頭を覗かせている。

おかしくは無い。だが、微妙と単純と複雑が混ざり合って実体化した様な印象を受ける。

カウンターに座ったその客は、何をするでもなく目の前に置かれている水の入ったグラスを見ている。見詰めているのではなく、見ている。木田もそれを気に掛けている様子は無く、棚から酒を出す。それを少し大き目の冷蔵庫へと入れる。入れ替えに既に入って冷やされていた酒を取り出す。

 一般家庭に在るような冷蔵庫で酒を冷やすとは庶民的、と言うよりも居酒屋としては邪道だ。それを知って尚客が来るということは、美味ければ保存方法など特に気にしない者が多いということだろう。

「飲むか?」

木田が明らかに未成年の客へ言った。その客は、僅かに眼を上げた。が、直ぐに視線を戻す。

「そうか」

木田が呟くように言った。酒をグラスに注ぎ、それを呷る。もう一度グラスを満たした後、残った酒を冷蔵庫へと戻す。椅子に座るとグラスに注いだ酒を二口飲んだ。そして煙草を取り出し、火を点ける。

「暑い」

少年が呟いた。

「ん?」

店内には、やや大きめの扇風機が四つ在る。だが、クーラーは無い。生暖かい空気を掻き回したところで涼しくはならない。

「仕方ないことさ。―――吸うか?」

木田は少年に煙草を差し出す。この男は、相手が未成年だということを理解できないのだろうか。

「・・・いや」

少年は溜息混じりに言った。

 

◆◆◆

 

 さっきからこの男はどうも解せない。一体何の為に自分を呼んだのだろうか。名前は木田将志と言ったか。知った名前ではない。

 何故自分だったのだろうか。あの多くの人の中から自分を選んだ理由。濡れていたからか。いや、傘が無く、濡れていた者など数え切れない程いた。立ち止まっていたからだろうか。しかも、その場所が此処へ来る為の路地の入り口だったからか。・・・いや、今までの彼の言動からすると、気紛れということも在り得る。むしろ、八割方そうではないか。

「風野・・・慎・・・君だったかな?」

木田が何かを思い出す様な口振りで言った。風野はゆっくり顔を上げた。名乗った覚えは無い。一方的に向こうが知っていたと言うことか。

「それで?」

普通は「何で?」と訊くところだろう。だが、風野は自分のことを何処で知ったかには興味は無かった。

「何が目的だった?」

それはこっちの台詞だ。この親父は何を言っているのか。

「家に居ることが怖かったのか?」

なるほど。あんなところで何をしていたのか、と言うことか。それにしても中々鋭い。そして、それなりに痛い所を突いてくる。

 事故のことはニュースでやっていたのだろうから、それで知っていたのだろう。自分のことは以前に何らかの方法で知ったのだろう。いや、ニュースの後かも知れない。とにかく、ニュースでは自分の名前は出たのだろうが、自分の写真は出るわけが無い。他の方法で知ったに違いない。

「それが?」

中々面白い会話ができそうだ。続けさせることにする。

「君でも恐怖を感じることがあるのか、ってことかな」

顔に笑みが浮かんでいる。やや癇に障る言い方だが、自分も然して変わったものではないのだろう。それくらいの自覚は風野にも有る。

「で?」

素っ気無く言ってしまうのは一つの癖だ。直すつもりは無いが。

「君は話を続けたいのか終わらしたいのか分からない返し方をするもんだな」

木田が笑みを更に深めて言った。

「もう少し愛想良くした方が良いと思うな」

「どーも」

さっきから責める様な言い方ではない。何となく語尾は優しい気がする。それが風野の口を滑らせた。普通に返してはいけなかった。流れを持って行かれる。いや、既に向こうのものだったか? 主導権は握っておきたかったが、完全に持って行かれた。意図的か、偶然か。

「金は有るのか?」

は? 余りにも唐突だ。前振りなど在ったものではない。それよりもどういうことなのか。この男は自分が勝手に呼び込んだ少年から、水一杯で金を取ろうというのか。

「一人暮らし・・・だよな」

この男は、一言目で自分の言わんとすることを相手に分からせるつもりが無いのだろうか。

 つまりは、一人暮らしをする金が有るかどうかを訊いているのか。月に十万程は河上から貰うことになっている。実際、遺産が在るので今のところはそんなに必要は無いのだが。叔父にそれを伝えたが、「いいから、いいから」と、優しく却下された。

「一応有る」

思ったより話は悪い方へ進んでいない。だが、いやに自分の事情を知っている。

「で?」

この男は自分のことを一体どれだけ知っているのか。それに興味が有った。できるだけ知っていることを引き出しておきたい。が、

「いや、金に困ったら(うち)に来ると良い。困ってなくても来ると良い。バイトとして雇おう。話をしに来るだけでも良い。定休日は日曜だ。仕事は無いが、話をしに来るのならば来てくれて良い。」

話は急速に終点に向かっている様だ。

それにしても、この男の言葉には知性が在るのか無いのか分からない。つまりは、「来てくれ」と言っているのか。

「好きな時に来ると良い。暇な時の時間潰しに利用しても良い。一番客の多い時間は、夜の十時から一時位だな。店は昼の三時から夜の二時までやっている。」

必死なのか。それとも、本当にどっちでも良いのか。元々こういう物言いなのか。そもそも、つまりこれは、今日はもう帰ってくれ、ということなのか。

 殆ど目ぼしい情報を得ることはできなかったが、そう簡単に引き出せるものでもないだろう。あからさまな訊き方をするのも問題だ。さっきの言動から、どうやら帰ってほしいようなので店を出ることにする。

 いつの間にか雨は止んでいる。建物に囲まれたこの場所からでは、余りよく分からないが、日が出ている様だ。久々に喋った為か、気分もそれなりに晴れていた。

 風野は席を立ち、出入り口へと進んだ。

「それじゃ」

風野がドアノブに手を掛ける。木製のドアは、ノブを回すだけで音が鳴る。仮にも店なのに何処にでも在るようなドアだとは・・・。

 再び酒を取り出そうとしていた木田が、手を止めて風野の方を見る。そして、少々つまらなそうに言った。

「何だ、もう帰るのか」

 

◆◆◆

 

 実に食えない男だ。

 風野は、それ以後度々木田の所へ行った。初めは単なる暇潰しだった。だが、次第にそれが習慣付いてきた。一人で家に居るよりはマシだ。と、本人は思っていた。思っているつもりだった。

 そう言えば、二回目に来た時に初めて居酒屋の名前を知った。『(さかり)』。なんともオヤジ臭い名だ。それでも、客は殆ど中年や、初老の男だ。気にする者などいないのだろう。そもそも場所が場所だ。普通に考えて、中学三年生がバイトをする所ではない。

 それもあってだろう。風野はそこの客にそれなりの人気が有った。本人はそんなものを気にしてもいなかったが。

 風野の目的は、金よりも木田だった。この男に対して興味が有った。何を何処まで知っているのか。特に、自分のことをどれ程知っているのか。

 何気無い会話の中で、何度もそれを引き出そうとした。木田はよく喋ったが、もう少し、と言ったところで、いつも上手くはぐらかされた。

 木田は、特に何も考えていない様で、だが風野は、常に木田の手の上で踊らされている、という感じを受けた。それは更に風野の興味を募らせたが、それを完全に満たすことが中々できないでいた。

 そんな日が暫く続いた。

 

◆◆◆

 

 八月三十一日。この日も風野は『盛』へ行った。

 風野が店に入った時、木田は入り口から一番遠い扇風機を弄っていた。彼の体を支えている物は、ここの物であるかも疑わしい綺麗過ぎる脚立だった。

 風野が来たことに気付いているのかいないのか。木田は振り返りもしない。風野も声を掛けるでもなく、カウンター席に腰を下ろして木田の方を見ていた。

 故障を直しているのだろうか。手を休めることなく動かし続けている。

 脚立の脚下には束になった埃と、既にその機能すら失ったことは疑いようもない雑巾が落ちている。一体どれ程の間触っていなかったのか。

 風野が辺りを見回すと、他の三つの扇風機の下にも同じ様な物が落ちている。扇風機の方は、見違えるほど、とまでは言えないが、まぁ綺麗にはなっていた。

 不意に木田の手が止まる。汚れた右手で頭を掻いて、その後その手は顎の無精髭をゆっくり撫でる。何かを考えているのだろうか。

 風野がカウンターの奥に在る時計に目をやる。午前八時五十二分。木田はいつからこれをやっているのだろうか。とは、風野は思わなかった。こんなこともするのか―――。

 木田の右手が再び頭を掻き始める。

「綿棒。カウンターの上に在るから」

それが木田の声であり、自分に向けられているものだと気づくのに、不覚にも風野は三秒ほど掛かった。

 カウンターの上には、確かに円柱形の半透明プラスチックパックに入った綿棒の束が在った。恐らくそれを寄越してくれ、ということだろう。

 風野はそれを木田の方へ放った。前触れ無しに放ったのは不味かったか・・・?

 木田は振り返りもしなかった。が、彼の左手にはしっかりとパックが収まっていた。右手は依然頭を掻いている。何と言うか―――芸当だ。

 まぁ、風野としては取ってもらわないと困る。落ちた綿棒パックを拾う面倒はしたくない。木田の行動に驚かなかった訳ではないが、それよりも気になったことは、木田の左手の包帯だ。昨日までは無かった。

 木田の右手が止まった。両手を自分の前へ持って行き、綿棒の取り出しを開始する。パックの蓋を開けたところで、何を思ったか脚立の上で体ごと振り向いた。風野に向けられた目が「何だ、居たのか」と語っている。

「何だ、居たのか」

わざわざ口に出すのか・・・。では、このオッサンはさっき誰に綿棒を取るように頼んだのだろうか。―――ということは、風野は気にしなかった。気にしていてはこのオヤジとはやっていけない。

 木田が再び扇風機の方へ向き直る。左手はパックから綿棒を取り出している。が、そのパックが右手から滑り落ちた。中身をブチ撒きながらパックは床をバウンドする。

 このオヤジは・・・。本気で落としたのか態と落としたのか、ということは、風野は一応無視しておく。それよりも、落ちたという事実だ。恐らく、と言うよりも絶対風野が拾わなくてはならないだろう。理不尽ではあるが、この相手が男ならばそうなる。

「すまん、すまん」

本気で誤っているのか、いないのか。そもそもまだ拾ってすらいない。つまりは「拾え」ということか。まぁ、案の定だが・・・。

 木田の手に残っているのはパックの蓋と綿棒一本。左手は空。意図的に落としたとしか思えない。

 取り敢えず、パックと綿棒数本を拾い上げ、手渡す。次の奴の言葉は恐らく無視した方が良いだろう。奴の口が開いた瞬間耳の神経経路を絶つことにする。

まぁ、しかし、

「お、態々拾ってくれるとは。優しぃね〜」

機械ではないのでそれは不可能。耳に入るのは仕方が無いので脳内の処理に任せる。願わくば聞かなかったことに・・・。風野の中では空耳と決定。全部拾ってほしいというような期待の目が向けられている気がするのは、空耳という処理をした際の脳内のバグということにしておく。

 この男はどうも人格破壊能力を持っている様だ。凶器は言動。対象者の頭の回転が速ければ速い程深手を負う。伊達に警官の息子をやっていない。犯行の手口など二、三証拠があれば軽く導き出せる。それを対処できるかどうかは別だが。

 と、考える風野は既に人格を一部破壊されている様だ。

 木田は、右手で持っていた綿棒で暫く扇風機をつついていたが、割と巨大な埃の塊が出てくると、扇風機にフロントカバーを付けて作業を終了した。結局使った綿棒は、彼が落とさずに持っていた1本だけだった。

 脚立から降りると、その脚立を畳み、それを担いで店の奥へと消える。暫くして戻ってきた木田の両手には、それぞれ瓶入りのラムネが一本ずつ握られている。ラムネなんか飲むのか・・・。

 一本はカウンターに置き、もう一本は風野に手渡す。思わず取り落としそうになる。ビンは氷のように冷たかった。恐らく、中身は凍る寸前だろう。

 木田は床の上の使える綿棒を拾い集める。それらの綿棒をパックに詰め込む。それをカウンターに乗せ、今度は箒と塵取りを取ってきて床の掃除をする。割と丁寧だ。

 気でもおかしくなったのか、今日は自棄に無口だ。朝食に(あた)ったのだろうか。

 二十分掛けた掃除を終了へ持っていく。その頃には、ゆっくり飲んでいた風野のラムネもなくなっていた。

 掃除用具を片付けた木田は、カウンターに置いておいたラムネを半分程飲む。ビンをカウンターに置いた。自分の口元に左手を持っていくと、口の中に在った物をそこへ出す。

 ビー玉だった。

 ビンの中に在った筈のビー玉が無くなっている。一体どうやって取り出したのか。ビンの口はビー玉よりも小さい。何と言うか―――芸当だ。

 風野は突っ込む気にもならなかった。突拍子も無いことをするのはいつものことだ。例えそれが非現実的なことであれ、この男にいちいち突っ込んでいては疲れるだけだ。そもそも、風野は突っ込みを口に出す方ではない。

 取り敢えず冷蔵庫からジョッキを取り出す木田を見る。その中には日本酒らしきものが半分位まで入っている。

 大方予想がつく。

 木田はそれに残りのラムネを加えた。酒が気泡を上げだす。案の定だ。と、風野は思った。が、木田はそれを持って冷蔵庫の前へと行く。そして扉を開けた。

 行動が理解不能だ。そんなところで保管すれば炭酸は抜ける。とは言え、この男のことなので、それを不思議に思ってはならないのだろう。思慮に欠ける人間であれば、或いはその行動自体に何の不信感も抱かないかも知れない。しかし、次の木田の行動は誰も予想のできるものではないだろう。

 木田は冷蔵庫に入れ掛けていたジョッキを取り出し、一気に飲み干した。・・・何がしたいんだ。

 そして、思い出したように振り返り、言った。

「あぁ、おはよう」

 

◆◆◆

 

 「ショウって知ってるか?」

空が朱く染まった頃に木田はそう言った。店に入る僅かな朱い光の筋が、今が夕方であることを伝えている。

ショウ―――恐らく人の名前なのだろう。それまでの会話の内容とは関係が無いであろう単語だった。訊いておく必要のある言葉だったのかも知れない。

「いや」

そう風野は答えた。本当のことだ。嘘を吐こうが意味は無い。

「そうか。なら良いんだ」

木田が呟くように言った。微かに寂しさを含んだ様な言い方。そんな気がした。そして、それは「これ以上訊くな」という意味も持っていた。少なくとも風野はそう感じた。

 

 暫く静寂が続いた。

 

 「木田さん」

風野が切り出した。そろそろ帰ることにする。

光の筋はいつの間にか部屋から姿を消していた。この居酒屋の中から見ることはできないが、東の空は青紫色への変貌を始めている。

 午後七時少し前。

 いつもの定休日通り、半日近くここで木田と取り留めの無い会話をちょこちょことして過ごした。

「明日から毎日は来れないから」

風野が、今まで座っていたカウンター席を立ちながら言った。明日から二学期だ。平日は余りここへ来ることはできないだろう。

「そうか」

木田が短く返した。今日はどうもいつもより一言一言の文字数が少ない。

「気になるのか」

木田の続く言葉に、風野は怪訝な表情をした。

 そんな風野の目の前に木田は左手を翳した。相変わらずその手には包帯が巻かれている。木田はそれを徐に解き始めた。

「こいつが痛くて痛くてな」

 解き始めて数秒後、包帯が完全に外れた。その手には・・・・・・一見何も無かった。だが、よく見るとそれは在った。

胼胝だった。恐らくペン胼胝だろう。言うまでも無く、大袈裟だ。

 風野が冷たい視線を送った。木田はそれを気にせずに話題を戻した。

「そうか・・・。明日から学校だったな」

先程も見せた、この男には珍しい真剣且つ、やや寂し気な物言いだった。

「まぁ、好きな時に来ると良いさ。いつも通りやっているからな」

「あぁ」

呟きながら風野は出口へと向かった。相変わらずべた付いているドアノブに右手を掛け、顔だけ振り向いて、

「それじゃ―――」

目の前に白い物が飛んできていた。反射的にそれを左手で掴み取る。本屋で本を買った時に入れるような小型の紙袋だった。中に何か入っており、口は折られてテープで止められ塞がれている。

「夏休みのバイト代と、まぁ、粗品だ。持ってけ」

木田が煙草を取り出しながら言った。その顔には、いつものやや嫌らし気な笑みが戻っていた。

「・・・どうも」

風野はそう言って出て行った。

 

◆◆◆

 

 「・・・・・・」

帰宅した風野が、自分の部屋で紙袋を開けると、茶色い封筒が入っていた。中を見ると、二十万円入っている。バイト代という金額ではない。取り敢えずそれを、金を保管している所へ仕舞った。

 袋の中にはもう一つ、小さ目の箱も入っている。袋から取り出す。そんなに重くはない。

 無地の白い立方体の箱を見ただけでは、中に何が入っているのか分からない。

 開けてみる。

 その中には、鉄製のライターと、煙草のパックが三つ入っていた。


 

 

   4.Encounter

 

 周りを樹々に囲まれ、街の光も、空の星の輝きも、そして道案内()も見えない。炎に包まれた家も、もう見えなくなっている。それでも、その煙は木々の間を縫って漂っている。消防車のサイレンも聞こえてくる。炎の勢いが中々強かったとは言え、山火事にはなるほどは強力なものでもなかっただろう。尤も、ここは丘だが。

 風野は樹々の間を適当に歩いていた。行く当ては無い。いや、在るには在るのだが、そこに長居するつもりはない。そこを出た後は、本当に行く当てなど無いのだ。

 それでも取り敢えず歩いた。

 森(と呼ぶには樹がそこまで多くもない気がするが、皆そう呼んでいる)には道など付いていない。強引にも道という物を探すとするならば、樹の生えていない所がそうだろう。そこまで樹も密集はしていないので、歩き難いことはない。周りが微かに見える程には月光も差し込んでいる。とは言え、微弱な光だ。照明器具を装備していない今の風野の目では、幾ら視力が良いとは言え、五メートル先もまともには見えない。その状況が見せる森は、昼間とは雰囲気がまるで違う。すぐに方向感覚など失いそうになる。振り向いて、来た道を見てみても、自分が今そこを通ったのかさえも怪しく思える。

 今のところは森を突っ切って反対側へ抜けるつもりはない。面倒ごとを避ける為に、街とは反対方向の森に入ったのだが、風野がよく行く街の近くにまでこの森は続いているので、迂回をする形になるが人目に付かずして下りることができる。

 そこから十分歩けば街に着き、更にもう十分程歩けば、居酒屋『盛』に着く。今の目的地はそこだ。

 最後に行ったのはいつだったか。二ヶ月は行ってなかっただろう。特に忙しかったという訳ではないが、金に困っていた訳でもなく、単に木田から得られる情報が薄くなってきたと感じた為、特に行く理由もなかったのである。

 木田の言葉で、気になることは沢山ある。全てを詳しく訊き出したいが、それは不可能だろう。だが、あれ(・・)だけは訊き出さなくてはならない。

 

◆◆◆

 

 街まで出てみると、いつも以上に騒がしく感じられた。誰もが自分を見ている気がする。今更殺人への罪悪感が出てきたか。

「フ・・・」

風野は、溜息とも自嘲とも付かない声を漏らした。その内、罪悪感などチリ程にも感じなくなる日が来るのだろう。既に自分は外道を歩いているのだ。外道には外道なりの生き方が在る。今更後悔するだけ無駄というものである。

 夜の森の中の移動だった為か、思ったよりも時間が掛かった。家を出てから一時間半程が経過している。時刻は午前二時五十二分。風野は『盛』の入口前に到着した。店の営業は案の定終わっている。一階の居酒屋には明かりが点いていない。二階の居住スペースの窓は路地が狭い為確認し辛いが、光が漏れている様子はない。木田はもう寝たのかも知れない。

 風野は入り口のドアノブに手を掛けた。やはり、と言うべきか。汗でねっとりとしている。そして生温かい。

 手首を捻ってみた。ノブは何の抵抗もなく回って―――開いた。

 無用心極まりない。だが、風野は然して驚かなかった。むしろ、この方が自然に思えた。何せここの営業者は、あの木田将志なのだ。そもそもこのドア自体に施錠の機能が付いていないようだ。

 店内の臭いは強烈だった。実際はバイトをしていた頃と殆ど変わらないのだが、久々に来たということで、そう感じたのだ。

淀んだ空気に満ちた店内は暗かった。外よりも暗かった。路地に接したこの建物には、外の光が余り入ってこない。夜の屋外から来たというのに、この暗さに目が慣れるまでに少し時間が掛かった。

 そう言えば、この時間帯にこの店に居たことはない。これが初めてだ。暗い店内は、豪く閑散とした雰囲気を醸し出している。そして、それによりいつもよりも広く感じられる。

 目が慣れたところで風野は動き出した。と言っても、近くがぼんやり見える程度だが。それでも店内を歩くことには不自由しないだろう。

 特に店内には変わったものはなかった。期待などしていなかったし、何かある方がおかしいと言うものだ。

 風野は、奥の部屋に入っていく。そこは更に闇が濃くなっていた。

 風野は立ち止まった。恐らく(と言うか、明らかだが)このまま先へ進んでいくことは無理だろう。人間の能力では、この先でものを見るということは不可能に近い。ここから先には行ったことがない為、勘に任せて行くことも不可能だろう。

 背負っていたリュックを肩から下ろす。床に置いて口を開ける。リュックの中身は全く見えない。仕方がないので手探りで探すことにする。困難なことではない。

 と、手をリュックへ突っ込む直前にその手は止まった。

 今まで忘れていたが、耳元ではずっと音楽が鳴り続けていた。インストルメンタルの静かな曲を流していた為、いつの間にかその存在を忘れていたのだ。

 ウォークマンの電源を切り、イヤホンを耳から外す。今はこのタイプのプレイヤーを持ち歩いている者は少ないだろう。もっと高性能、多機能の物が次々と出ている。そもそも、今時MDを使っている高校生もそんなに居ないだろう。カードなどのパソコンでも使うことのできるものがあるし、大量に音楽や画像、動画を入れることのできる携帯型プレイヤーもある。最近ではそれすらも携帯電話がカバーする形になりつつある。が、風野はそんな物には興味はなかった。

 風野の持っているウォークマンは、ラジオ機能を搭載したものだ。今では余り人気の有る物ではなく、使っている者も殆どいないが、テレビよりもラジオを好んで聴く風野には重宝されている。流行り廃りをそれ程気にしないのが風野だ。

 リュックに手を突っ込み、ゆっくりと動かす。整理して物を入れた為、目的の物を取り出すのに、それ程の時間は掛からなかった。

 懐中電灯。

 最近は発光ダイオードが主流となっているが、風野のそれは違う。光量・光幅を調節する機能が付いたものだ。光力はダイオードにやや劣るが、無闇に強く照らすよりも、こっちの方が使い勝手が良いと思ったのだ。大きさもそれ程ないので便利である。

 部屋を照らすと、そこは物置だった。色々な物が積み上げられている。通路は在るが、少し強い地震でも来れば一瞬で無くなるだろう。

 中へ踏み込むと、やや埃とカビの臭いがした。余り空気が良くない。窓を見つけたが、大方物に埋められており、開けられる状態ではない。木田らしいと言えそれまでだが。

 通路―――物の間を通っていく。通路は蛇行していた。物と言う名の壁で造られた迷路の様である。

 その迷路の出口付近、丁度入り口の正面にあるドアの前で、風野はふと立ち止まった。いつか見た脚立が在った。あれから余り使っていなかったのか、埃を被っている。通路を挟んだその正面には、木製の古い机に乗った、小さな灰色の冷蔵庫が在った。こちらも埃を被っていたが、取っ手の部分だけは埃が付いていない。これは普段から使っているのだろう。

 風野は、何となくその冷蔵庫を開けてみた。ジメジメした部屋の空気に、冷気が混ざる。中には、ラムネとサイダーと缶ビールと酒と缶コーヒーが数本ずつ入っていた。飲み物だけだ。賞味期限は、どれも切れてはいないようである。

 風野はその中から缶コーヒーを一本取り出して、冷蔵庫を閉めた。同時に冷蔵庫付近に在った埃が軽く舞う。

 部屋を出ると、目の前は壁だった。右に廊下が続いている。そして、真っ暗だった。窓は在るが、光が入ってきていない。窓から外を見てみたが、見えたのは隣の建物の外壁だけだった。恐らく三十センチメートルも離れていないだろう。これでは昼間でも光は入ってきそうにない。

 廊下の電気のスイッチと思われるものを発見したが、敢えて触らなかった。懐中電灯の光もやや絞る。

 どうやらここはそれなりに掃除をしているようである。土足なので、足元に小石が在るのは仕方がないが、目立った埃などは特に見当たらない。

 風野はさっき取った缶コーヒーを見た。懐中電灯で照らす。どうやら無糖のブラックコーヒーの様だ。嫌いなわけではない。どちらかと言えば風野は、コーヒーは甘いものよりも苦いものの方が好きだ。

 プルタブを引くと“プシュ”という音と共に、微かに冷気の湯気が出た。中々良い香りもする。風野は、それを一気に飲み干した。乾いていた喉が潤っていく。

 風野は、空になった缶を持ち、もう一度物置へと入った。冷蔵庫の前まで行くと、それが乗っている机の上に缶を置いた。が、すぐにまたその缶を持ち、冷蔵庫を開けて中に入れておいた。『使ったものはきちんと元のところへ』である。

 風野は再び物置から廊下へと出た。廊下の奥を見ると、さっきよりもやや明るくなっている。恐らく人工的な光に因るものだろう。木田が起きたのだろうか。或いは、初めから寝ていなかったのかも知れない。物音に気付いたのだろうか。

 廊下の突き当りまで進むと、その右側に階段が在った。光源はどうやら二階のようだ。真っ直ぐに伸びた階段を上がったところの突き当たりに在るドアの磨硝子から、光が漏れている。

 風野は懐中電灯の電源を切った。階上からの光でそこまで明るくはないものの、足元は見える。電池の浪費は避けたい。しかし、それよりも木田にすぐに見つかるのは面白くないと考えたのだ。後から会うのだから、余り意味のあることではないのだが、そうしたかったのだ。

 階段の一段目中央に足を掛けた時、上から音が聞こえた。耳を澄ましてみる。すると、それは人の声であることが分かった。どうやら木田のようだ。誰か他に居るのだろうか。内容までは聴き取ることができない。

 その場で立ち往生していても仕方がないので進むことにする。右足に体重を掛けた。左足を浮かせる。直前に階段が微かに軋んだ。小さな音が鳴る。風野は重心を左足に戻し、右足を床に下ろした。

 一度階上に目を向ける。声は変わらず聞こえ続けている。木田は気付いていないと見て良いだろう。

 今度は右端へ移動して、階段に右足を乗せた。軽く二、三回断続的に右足に体重を掛ける。どうやら今度は大丈夫そうである。階段の右端を壁に軽く手を付きながらゆっくりと忍び足で昇っていく。木田の声が少しずつ大きくなる。

 昇り切り、踊り場に着くと、風野は自分の影が硝子越しに見えないように、右の壁に沿ってドアの近くに行く。そして、その場で壁に背を預け、腰を下ろす。

 煙草を取り出した。パックの中の残り三本の内の一本を抜き出す。それを銜え、ライターを取り出し、煙草の先に火を点けた。光の死角となった場所に、小さな緋い光と、一筋の紫煙が生まれる。

 ライターの蓋を閉めると、小さくカチンと音が鳴った。そのライターを見る。特に装飾のない表面は鈍金色をしている。六センチメートル×四センチメートル×二センチメートルのやや大きめの金属ライター。装甲は硬く、持った時にずっしりとした重みが有る。油の補給が可能なので、半永久的に使うことができる。表面をよく見ると、微かに凹んだところが在った。恐らく、銃弾を回避した時にできたものだろう。

 木田から貰ったライターだ。ずっと使っている。

 そういえば、木田の家で煙草を吸うのは意外にも初めてだった。別に木田の前で吸おうが何も言われないのであろうが、元々煙草の臭いが染み付いている店内では余り吸う気になれなかった。そもそも、流石にバイトをしながら吸うわけにはいかないだろう。

 ここに来るのもこれが最後になるだろう。これが最初で最後の木田の家での喫煙だ。尤も、風野はそこまで吸いたかったわけではなく、木田の声の盗聴をする間の暇潰しの手段だった。

 木田の声は相変わらず明確には聴き取れない。やや小声で喋っている感がある。だが、それでも階下に居た時よりは幾分か聴き取り易くはなった。

 どうも木田以外の声は聞こえてこない。独り言でもなさそうなので、どうやら電話をしているようだ。木田が掛けたのか、それとも掛かってきたのかは分からないが、この時間帯に電話をするのは、された側にとっては良い迷惑だろう。電話の相手が誰だかは分からないが、この非常識な行動を考えれば木田から電話を掛けた可能性は高いと言える。

 暫く盗聴を続けていたが、会話が終わる気配がない。しかも、断片的にしか聞こえてこない為、内容を掴むことも困難だ。埒が明かないので、今吸っている煙草が尽きたら中へ入ることにする。

 と、階下から物音がした。誰かが入ったのだろうか。施錠のない出入り口なので、誰でも容易に侵入することができる。それを考えれば、その確率は決して低いとは言えない。風野も謂わばそれに当るのだから。

 風野は気持ち身構えた。無意識に左の内ポケットを上着の上から確認する。上着越しに硬い銃の感触が伝わってくる。

 物音は然程大きくはないが、断続的に鳴りながら、徐々に近付いている。

 床を移動している音に思えるが、やけに軽い。人間のそれと言うよりも、むしろ―――

 「ぁーお」

 そいつは現れると同時に声を上げた。高めの、何処か切なそうな声を。いや、正確には鳴き声を。

 黒猫だった。

 右手を階下からは見えないように懐に運んでいた風野を見ている。歩みを止めて見詰めている。

 風野も同じく相手を見詰めていた。同時に何かが蘇る。

 

 重い雲

 賑やかだが色の無い街

 茶色い傘

 焦げ茶のトレンチコート

 無精髭

 狭い路地

 黒猫

 フラッシュアウト

 

 「ぁ」

思わず声が漏れた。

 木田と初めて出会った日。あの時の黒猫だった。それを証明するものは何もない。だが、確信があった。

「ぁーお」

もう一度鳴くと風野から視線を外し、階段を危な気なく昇ってくる。

 上まで来ると少しだけその場を歩き回り、その後座り込んで毛繕いを始めた。人間の目の前だというのに、警戒心の欠片も感じられない。尤も、風野はそれを見るだけで、手を出すつもりなど毛頭無いが。

 あの日以来会ったのは初めてだ。以前はまだ仔猫のようだったが、成長して大きくなっている。それでも小柄で、随分と華奢に見える。毛繕いの様子を見ていて気付いたが、どうやら雌のようだ。

 彼女は毛繕いを終えると、ドアに向かって座った。そして、さっきまでと同じ調子で鳴く。

 何時の間にか声が途絶えていたドアの向こう側から足音がした。それは当然の如く、こちらへと向かってくる。

 程なくしてドアが向こう側へ開いた。階段へ流れ込む光量が一瞬増すが、すぐに大きな影ができる。

 木田が入り口に立っていた。逆光で余り顔は見えないが、普段と同じようにやや嫌らし気な笑みを浮かべた表情をしているようだ。彼の足元を黒猫は当然のように擦り抜けて中へ入っていく。

「来てたのか」

木田は風野を見ながら言った。驚いた様子はなく、声も普段と変わらない。まるで予めここに風野が来ることを知っていたかのようだ。だが、この男ならば夜中に勝手に家に上がりこんだ少年に対してこの反応をするのも納得できないわけではない。

「フゥ」

風野は溜息とも笑みとも取れる声を漏らした。同時に紫煙が口から吹き出される。光と闇の境界を煙は揺れ動き、消えていく。

 右手に持った煙草はかなり短くなっている。それを携帯灰皿に押し付けた。灰皿の蓋を閉め、元の所へ仕舞う。

「不法侵入の上に、そこで一服か」

床に座っている風野に木田の声が振ってきた。表情は良く見えないが、大体分かる。厭味たらしい笑みを浮かべているに違いない。

 風野は相手の顔を見ずにじっと座っていた。暫しの静寂が続く。その十数秒程度が豪く長く感じられた。

 静寂を破ったのは、風野でも木田でもなかった。部屋の奥から聞こえてきた声。高く、何処か切なげな声。さっき入っていった猫の鳴き声だった。

 風野もゆっくりと口を開く。

「不法侵入というなら」

言いながら、緩慢な動きで立ち上がる。

「あの猫もそうだろう」

いつもの口調でそう言った。本気なのか冗談なのか分からない物言いだ。恐らく冗談なのだろうが、それならばもっとそれらしく言わなければ誤解される。本人は気にしないのかも知れないが、第三者からすれば少し気になるところだろう。

「あぁ、気にするな」

とは言え、例外は存在するもので、木田は然して気にしていないように返す。

「あいつは常連だから良いんだ」

ここ暫く来ていなかったからかも知れないが、木田から見て風野は常連ではないようだ。